「AI との共存」「AI による仕事の略奪」
そんな言葉をよく耳にするようになった。
ブログ、ライター、私の仕事の1つは文章を書くことだ。
たった3000字の記事に10時間かけることもある自分を笑うかのように、AI たちは、一瞬で文章を紡ぎ出す。その美しさ、表現力に圧倒され、思わず息を呑む。
すごい。と同時に、恐ろしい。いやはや、ライティングにおける人間の価値とは。
頭を抱え、また筆を取ってみる。
まず思うのが、表面的に整えられただけの言葉は、もはや珍しくなくなるということだ。AI の登場で、アウトプットのハードルは一気に下がった。誰もが簡単に、見た目は立派な文章を量産できる時代がやってきた。
かつては、整えられた、読みやすい、わかりやすい文章を書けるだけでも価値があった。しかし、そんな表面的な文章力だけで勝負する時代は終わろうとしている。すべてのアウトプットが、最低限の美しさを持つようになるに違いない。
だから、表面的なことだけをグダグダ続けていても、もうダメなんだと思う。人間が関与する意味を残したければ、そこに “人間的な何か” を込めることが強いられる。腹をくくって、己の魅力で勝負するしかない。
ひらめき、温もり、情熱。鍛え上げられた人間にしか醸し出せない、魂を揺さぶる何かを、私たちは AI と共生しながら、言葉に宿していかねばならない。
皮肉にも、AI 全盛の時代だからこそ、「人間性への回帰」が求められるのだ。そして、それが一見美しいアウトプットが乱立する AI 時代に、差別化する要因にもなり得るだろう。
裏を返せば、中身が空っぽな人間は太刀打ちできない時代になるということだ。我々は、良質なインプットに身を投じ、己という人間を鍛錬し続けることが求められる。アウトプットそのもののハードルが下がる AI 時代だからこそ、インプットがこれまで以上に重要になる。
中でも、AI にはないインターフェイスである ”身体” を通したインプットの価値が上がると思う。未知の文化に飛び込む。雄大な自然に身を投じ、自分の小ささを思い知る。スポーツに没頭し、限界を感じる。素晴らしい芸術作品に触れ、心の琴線を揺さぶられる。そんな濃密な経験こそが、かけがえのない感性を育む土壌になるに違いない。
幸いなことに、AI がアウトプットを助けてくれる分、私たちはインプットにより多くの時間を割くことができるだろう。せっかくなら人間ならではのインプットを、思いっきり楽しんでみたい。
AI を活用しながらも、そこに人間性を注ぎ込んでいく姿勢。その先に、新たな地平が開けている。AI との二人三脚だからこそ、人間としての創造性を、より高次に発揮できると思うとワクワクする。
いや、AI の発展は目覚ましく、遠くない将来、人間の創造性を超える日が来るかもしれない。でも、その日まで精一杯抗ってみたい。AI と手を携えながら、人間らしさを失わずに歩んでいく。そんな覚悟を持って、表現することと向き合っていきたい。