『猫を捨てる 父親について語るとき』(村上春樹)【読書記録・名言・感想】

小説・文学

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著:村上 春樹, イラスト:高 妍
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村上春樹が自身の父親について語った珍しいエッセイ。

幼い頃に父と一緒に猫を海岸で棄てたという記憶を出発点に、戦争体験を持つ父の人生と自分自身の存在について静かに思索を重ねた作品。

村上作品に頻出する戦争の残酷な描写や不思議な猫のエピソードの原点が垣間見える。

※この記事には引用を含むため、内容に触れたくない方はお控えください。



以下、心に残った箇所を引用。

こういう個人的な文章がどれだけ一般読者の関心を惹くものなのか、僕にはわからない。しかし僕は手を動かして、実際に文章を書くことを通してしかものを考えることのできないタイプの人間なので(抽象的に観念的に思索することが生来不得手なのだ)、こうして記憶を辿り、過去を眺望し、それを目に見える言葉に、声に出して読める文章に置き換えていく必要がある。そしてこうした文章を書けば書くほど、それを読み返せば読み返すほど、自分自身が透明になっていくような、不思議な感覚に襲われることになる。手を宙にかざしてみると、向こう側が微かに透けて見えるような気がしてくるほどだ。

p107

もし父が兵役解除されずフィリピン、あるいはビルマの戦線に送られていたら…….もし音楽教師をしていた母の婚約者がどこかで戦死を遂げなかったら…….と考えていくととても不思議な気持ちになってくる。もしそうなっていれば、僕という人間はこの地上には存在しなかったわけなのだから。そしてその結果、当然ながら僕というこの意識は存在せず、従って僕の書いた本だってこの世界には存在しないことになる。そう考えると、僕が小説家としてここに生きているという営み自体が、実体を欠いたただの儚い幻想のように思えてくる。僕という個体の持つ意味あいが、どんどん不明なものになってくる。手のひらが透けて見えたとしてもとくに不思議はあるまい。

p107, 108

それが僕の子供時代の、猫にまつわるもうひとつの印象的な思い出だ。そしてそれはまだ幼い僕にひとつの生々しい教訓を残してくれた。

「降りることは、上がることよりずっとむずかしい」ということだ。

より一般化するなら、こういうことになる—— 結果は起因をあっさりと呑み込み、無力化していく。それはある場合には猫を殺し、ある場合には人をも殺す。

p112

いずれにせよ、僕がこの個人的な文章においていちばん語りたかったのは、ただひとつのことでしかない。ただひとつの当たり前の事実だ。

それは、この僕はひとりの平凡な人間の、ひとりの平凡な息子に過ぎないという事実だ。それはごく当たり前の事実だ。しかし腰を据えてその事実を掘り下げていけばいくほど、実はそれがひとつのたまたまの事実でしかなかったことがだんだん明確になってくる。我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか。

言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。

しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。

p114,115

歴史は過去のものではない。それは意識の内側で、あるいはまた無意識の内側で、温もりを持つ生きた血となって流れ、次の世代へと否応なく持ち運ばれていくものなのだ。そういう意味合いにおいて、ここに書かれているのは個人的な物語であると同時に、僕らの暮らす世界全体を作り上げている大きな物語の一部でもある。ごく微少な一部だが、それでもひとつのかけらであるという事実に間違いはない。

でも僕としてはそれをいわゆる「メッセージ」として書きたくはなかった。歴史の片隅にあるひとつの名もなき物語として、できるだけそのままの形で提示したかっただけだ。

p120,121


感想
『海辺のカフカ』の不思議でかわいい猫たち、『ねじまき鳥クロニクル』をはじめ目を背けたくなるような戦争の残酷な描写はとても印象に残っている。

特に、戦争や暴力がなぜこんなにも執拗に描かれるのか疑問に思っていたが、本作を読んで、その根源が父親の戦争体験と、幼い頃の父との記憶にあったことを知る。

戦争体験について多くを語らなかった父。しかしその沈黙の重みこそが、息子である春樹の創作の底流に流れ続けている。

終戦から80年が経ち、体験者の証言が失われつつある今、直接的な「語り」ではなく、文学という形で記憶を受け継ぐことの意味を静かに問いかける。

個人的な物語でありながら、同時に普遍的な問いを含んだエッセイ。イラストもかわいく、薄くて読みやすい(それでいて深い)。肩肘張らずぜひ手に取ってみてほしい。

著:村上 春樹, イラスト:高 妍
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