「心が打ち震え、読んだあと余韻に浸れるような、読書体験をしたい!」
そんなあなたに絶対に読んでほしい、カズオ・イシグロ著『クララとお日さま』を紹介。
年間100冊は本を読む筆者(@atsukuteyurui)ですが、2021年ダントツ心に残った1冊。
- クララとお日さま
- 著者 :カズオ・イシグロ(著)土屋 政雄(訳)
- 発行年:2021
- 出版社:早川書房
カズオ・イシグロ氏は2017年にノーベル文学賞を受賞した、長崎県出身、日系イギリス人小説家です。
そして、彼がノーベル賞を受賞して初の長編小説が『クララとお日さま』です。オバマ元アメリカ大統領の、夏の必読書2021にも選ばれた、全世界必読の1冊。
本記事は『クララとお日さま』の魅力を一人でも多くの人に知ってもらいたい!という思いで、あらすじ&感想を書いていきます。
【ネタバレなし】『クララとお日さま』あらすじ&感想
あらすじ
『クララとお日さま』は、AF(Artificial Friend:人工親友)のクララが語り手の物語。
AFとは人間(主に子ども)の友だちとなり、寂しさを感じさせないよう尽くすAIロボットのこと。クララは最新型のB3型ではなく旧型のB2型。しかしながら「見るものを吸収し、取り込んでいく能力」と「精緻な理解力」が飛び抜けた、とてもかしこいAFです。
買ってくれたのはジョジーという病弱な少女とその家族。彼女の「人工親友」としての使命をまっとうすべく、クララは献身的に尽くし始めるのでした…。
感想
主人公クララの健気さに心打たれる!
クララはカズオ・イシグロが創ったもっとも美しい子供だ。
『クララとお日さま』河内恵子さんの解説より
まずとにかく言いたいのは、主人公のAFクララがそれはもう魅力的だということ。みなさんはAIロボットといえばどんなイメージがあるでしょうか?
身近なところでいうと、ソフトバンクのロボットPepper、あるいはiPhoneやMacに搭載されているSiriとかでしょうか。
『クララとお日さま』の主人公クララはそういった2021年現在のAIロボットよりも、ずっとずっとハイスペック。
というより、ほぼ人間と同じといってよくて、喜んだり、悲しんだり、傷ついたりという感情もあります。(さらには1つ1つ個体差があって、個性もある)
けれども人間と大きくちがうのは、やっぱりそれが「人間に尽くす」という目的でつくられた“製品”であること。つまり人間に使われる“モノ”であるがゆえに、ひどい扱いを受けることだってあるわけです…。
けれどもクララはなにがあっても、そして誰になにを言われても、ジョジーのAFとして「ジョジーにとって最善は何か?」を考え、尽くし続けます。
ときに自分を犠牲にしてでも、ジョジーを愛し、ジョジーの幸せを願い、ジョジーに献身するクララ。
そんなクララの健気さに、私は強く心を打たれたのでした…。(涙もろい人は、涙なしでは読めないと思います)
ロボットの見え方・考え方が文章の中で追体験できる
『クララとお日さま』はクララ視点で物語が描かれます。
それゆえ、ロボット(AF)の見え方・考え方が、文章のなかで追体験できるのです。
クララはあくまでもロボットなので、情報処理が追いつかないときがあり、そのときの描写がなんとも独特。
たとえば、以下はみんなで劇場にお出かけする場面。あまりに人が多くてクララの認識が追いつきません。
わたしの周りでたくさんの顔が押し合いへし合いしています。でも、すべてを押しのけて新しい顔が現れ、どんどん近づいてきます。ほとんどわたしの顔に触れそうになったとき、それがリックだとわかって、思わず驚きの声が出ました。
『クララとお日さま』カズオ・イシグロ著 p337
このようなユニークな表現の数々が「クララはなにを見ているんだ?」「いまどういう状況なんだ?」と、私たちの想像力をかき立てます。
ちなみに『クララとお日さま』は映画化も決定していますが、こうしたクララの認知機能がどのように描かれるか注目です。
(これは他のカズオ・イシグロ作品もそうなのですが…)『クララとお日さま』は文章を読んでいるだけなのに、想像力がかき立てられる。情景が鮮明に浮かぶんですね。しかも、それがすごく美しい。
映画化はもちろん楽しみなのですが、一度映像をみてしまうと、そのイメージに引っ張られる部分がありませんか?私はあります。そのような意味でも映像化される前に、ぜひ読んでいただきたい作品です。
たくさんの問題提起があり、深く思考させられる
『クララとお日さま』って難しい作品なの?
いえいえ、そんなことはありません。おそらく小学生でも読めるし、ぜひ読んでほしい物語です。
けれども、現代的な問題提起に富んでおり、大人が読んでも深く考えさせられる作品であることもまた間違いありません。
次の動画は『クララとお日さま』発表時の、カズオ・イシグロ先生のインタビュー。
このインタビューの中で彼は、次のような問題意識について語っています。
- ビッグデータやAIの時代、人間の心や愛といった問題はどうなるのだろうか?
- 人を人たらしめる条件とは何か?
- 十分なデータさえあれば、同じ性格や個性を持った存在を複製できるのか?
AIロボットが“あなた”という存在を高度に学習し、極限まで模倣できたとき、そのAIロボットは“あなた”の代わりになり得るのでしょうか?
みなさんはどう思われますか?
『クララとお日さま』の登場人物たちのセリフのなかで、社会を支配しつつある考え方、あるいはそれに対する反論など…
カズオ・イシグロ先生の思考の過程、そして哲学が伝わってきます。もちろん『クララとお日さま』に込められた重要メッセージはこれだけではありません。
続きは、ぜひみなさん自身の目で確かめてみてください。
鮮明になる人間の弱さが苦しい。それでも終盤への展開は必読
『クララとお日さま』というタイトル、表紙のイラストだけ見ると、とてもやさしくあたたかい物語に思えます。
ところが実際に読み始めると、決して明るいお話ではないと気づくのです…。
というのも、どこまでも純粋に健気に尽くそうとするAFクララとの対比によって、人間の登場人物たちの身勝手さ・弱さが際立つから。
それはもう最後の方まで「本当にこの物語には救いはあるのか?」と不安になったくらいです…。
けれども、そこは2017年ノーベル文学賞受賞者であるカズオ・イシグロ先生を信頼し、なんとか読み進めてほしいです。
こんなステキな口コミを発見。めっちゃ頷いてしまいました。
最高の読後感
AI搭載のロボット少女が主人公(語り手)の物語。
科学と人間の在り方について考えさせられる。
物語の始めの方から、なんとなく不穏な雰囲気だ。和やかでほっこりするようなエピソードの時にも、読んでいて不安が常につきまとう。読み進めるうちに、登場人物たちの考えが少しずつ明らかになってきて、背筋が寒くなってくるところもある。が、読後は、穏やかな気持ちに包まれるし、もう一度読んでみたい、とも思わせる。著者の作品の中でも、最高の読後感かもしれない。
人を助けたいと思い、根拠が薄い迷信のようなことでも信じて祈る、という最も人間らしい行動を、AIもするなんて、なんと皮肉で、そしてまた希望を感じさせる。
2017年にノーベル賞を受賞したときの記念講演で、著者は「人工知能」や「遺伝子編集」「野蛮な能力主義社会」などへ危惧を語っていた。それらが形となったのが本作ということか。
Amazon.co.jp MRNAさんのレビューより
私自身も読んだ後、次の日くらいまで心のどこがに余韻が残っている…そんな不思議な感覚を味わいました。
ここまで記事を読んでいただいて『クララとお日さま』が少しでも気になったあなたへ。今すぐ本を手に入れて、その世界観を味わってみてください。絶対に後悔はさせません。
【ネタバレあり】『クララとお日さま』感想・考察
愛、献身、祈り
「大切な溶液を失いましたが、かまいません。それでジョジーがお日さまの特別な助けを得られるものなら、喜んでもっと、いえ全部でも、捧げます」
『クララとお日さま』カズオ・イシグロ著 p388
『クララとお日さま』は愛、献身、祈りの物語。そしてそうした“最高の美徳”と呼ばれるものが、AIロボットによって体現されるというところに、ユニークさがあると感じました。
クララが主人へお仕えするAIロボットゆえ、人間のように「私」という存在にそこまでこだわりがないからなのでしょうか…
彼女の気持ちはどこまでもピュアで、混じりっけがないのです。(それらも全てプログラムされたものだと考えるとゾッとしますが)
それこそ人間たちが諦めそうになっているときも、クララは決して希望を捨てず、ジョジーのためを思って最善を尽くします。
そんなクララの姿をみた周囲の人間たちも「クララは所詮ロボットである」という扱いを変えざるを得なくなるのです。
(けれども“結局はAIロボット”という扱いを受けてしまうところで、カズオ・イシグロ先生は私たちを揺さぶってくるわけですが…)
リックや家政婦のメラニアさんが、途中からクララをきちんと認めるようになったのは嬉しかったです。
「お日さま、どうぞジョジーに特別な思いやりを」
『クララとお日さま』カズオ・イシグロ著 p393
AFは科学の最先端を行く、科学の結晶なはず。けれども「本当に?」と疑ってしまう科学では説明できないものを人間以上に信じ、そして祈る。
これってよく考えると、不思議な描写ですよね。
すこし話は逸れるかもしれませんが、クララはAIゆえにすごく賢いんだけど、AIゆえにちょっとズレたところもあります。
このギャップが主人公クララの魅力につながっており、ストーリー上も「本当にこれで大丈夫なのか?」と、ハラハラドキドキさせる演出になっていると感じました。
(主人公の描写だけでもどこまでも語れそうです…)
AIは人間にどこまで近づけるのか?(人間を人間たらしめるものは何か?)
『クララとお日さま』は、いくつかの重要な問題提起があります。
その中のひとつに「AIは人間にどこまで近づけるのか?」というテーマがあるでしょう。
ジョジーの母親の計画…それはもし病弱のジョジーが亡くなったとしたら、クララにジョジーとして生きていってもらうということ。
実際クララにはジョジーの喋り方、歩き方、仕草など、驚くほどに模倣する力がありました。
この計画は実行にうつされることはありませんでしたが、考えるとゾッとしますよね…。
けれども母親の計画に協力している科学者のいうとおり、現在の科学的な見解としては、人間は計算可能なアルゴリズムにすぎない(よって計算によって再現可能)というものなのだそう。
世界的歴史学者・哲学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏が未来予測をした『ホモ・デウス』
この本のなかで「アルゴリズムには手の届かない無類の能力を人類が持ちつづける」というのは幻想であり、その理由はつぎの3つの単純な原理に要約できると述べられます。
1 生き物はアルゴリズムである。ホモ・サピエンスも含め、あらゆる動物は厖大な歳月をかけた進化を通して自然選択によって形作られた勇気的なアルゴリズムの集合である。
2 アルゴリズムの計算は計算機の材料には影響されない。そろばんは木でできていようが、鉄でできていようが、プラスティックでできていようが、二つの珠と二つの珠を合わせれば四つの球になる。
3 したがって、有機的なアルゴリズムにできることで、非有機的なアルゴリズムにはけっして再現したり優ったりできないことがあると考える理由はまったくない。計算が有効であるかぎり、アルゴリズムが炭素の形を取っていようとシリコンの形を取っていようと関係ないではないか。
『ホモ・デウス 下』ユヴァル・ノア・ハラリ 著 p148〜149
つまり現代科学の見解としては、クララがジョジーを完全にコピーするということも不可能ではないという話になるわけです。
しかし、クララは(というよりカズオ・イシグロ先生は)アルゴリズムだけでは人間を完全にコピーできないといいます。
「店長さん、わたしは全力でジョジーを学習しました。求められれば、全力で継続していたと思います。でも、結果が満足いくものになっただろうかと問われると……。それは、完璧な再現などできないということより、どんなにがんばって手を伸ばしても、つねにその先に何かが残されているだろうと思うからです」
『クララとお日さま』カズオ・イシグロ著 p431
〔…〕「特別な何かはあります。ただ、それはジョジーの中ではなく、ジョジーを愛する人々の中にありました」
うーん、深い。そして、簡単にはコメントできそうにありません。
ただ例えばですが、人は肉体として死んだとしても、精神として生きていくことができるという考え方があります。(筆者の研究対象としたアドラーの共同体感覚の世界観はまさにそう)
みなさんにも「今はこの世にはいないが、心のなかにずっと生きている」という存在はいるのではないでしょうか?
生きるということは、他者のなかに生き続けるような“精神”もふくむということ。
そして、その精神は決してアルゴリズムで再現できはしない「特別な何か」なのかもしれません。
『クララとお日さま』でジョジーたちが生きるのは、向上処置(遺伝子操作)による格差社会。
ここらへんも『ホモ・デウス』で描かれたディストピア的な未来と重なります。
こうした問題意識に興味をもった人は、『ホモ・デウス』もあわせて読んでみてください。
『クララとお日さま』で描かれるのが、決してあり得ない未来ではないことに気づけます。
これはハッピーエンドなのか?胸がザワザワしたラスト第六部
『クララとお日さま』で衝撃が走るのは、なんといってもラスト第六部。大学に進学するジョジーとの別れのあと、突如場面は廃品置き場へと移ります。
ジョジーのためにずっと尽くしてきたクララ…。
そんな彼女の居場所が子ども部屋から物置へ、そしてどこかの廃品置き場へと移り変わっていくのを見て、すごく複雑な気持ちになりました。
この物語はハッピーエンドなのでしょうか?
廃品置き場での店長さんとの再会シーン。2人の会話の中でクララは次のように述べています。
「…ジョジーが大学に行くまで、ずっとジョジーと一緒でした」
『クララとお日さま』カズオ・イシグロ著 p429
「では、大成功ですね。いい家だったのですね」
「はい。できるサービスをすべて提供して、ジョジーがさびしがるのを防ぎました」
クララはジョジーのこと、ジョジーの家族のことをを絶対に悪く言いません。
「家の方々にとても親切にしていただいて、たくさんのことを学びました」
「お店にやってきてあなたをえらんだときのこと、覚えていますよ。お母さんがあなたをテストして。娘さんのように歩けるか、って。わたし、あなたがいなくなってからもずっと心配していました」
「心配なことはありませんでした。わたしには最高の家で、ジョジーは最高の子です」
『クララとお日さま』カズオ・イシグロ著 p430
いろいろと苦しいこともあったのに、そこには一切触れないところが「クララ〜(涙)」ってなります…。
店長さんによると、途中で家の人とうまくいかなくなること、大事にしてもらえないこともあるそう。
そう考えると店長さんのいう通り、クララはAFとしての生涯を全うすることができた、というのは事実なのかもしれません。
店長さんはクララがまだ売れる前、このように釘を刺していたことがあります。
「お客様がAFを選ぶので、逆ではありませんからね」
『クララとお日さま』カズオ・イシグロ著 p51
クララは選んでいただいた“お客様”のために立派に役目を果たしました。また、彼女自身も「成功した」と思えています。
そう考えると、この物語はハッピーエンドなのかもしれません。
けれども、もしクララが人間だったら捨てられるなんてことはないわけです…。
意思や感情を持ち、これほどまでに人間のために尽くしてきたAIロボット。
それが「人間ではないから」「型落ち品で古くなってきたから」「用済みだから」などの理由で、捨てられてしまうことは許されるのか?
シンプルなハッピーエンドでは終われない、カズオ・イシグロ先生からの大きな問いかけがあるラストシーンだと感じました。
それでもやっぱり美しいジョジーとの別れのシーン
『クララとお日さま』は、最後にクララが廃品置き場へと送られてしまうと考えると、素直にハッピーエンドだと喜びきれません。
しかしながら、それでもジョジーとの別れのシーンはとても美しく、読者に感動を与えると感じました。
少し長いですが、大好きな別れのシーンを引用しておきます。(この場面だけは、クララにも救いがあるのかな…)
母親が運転席にすわり、出発の準備がととのったとき、ジョジーがわたしのほうに戻ってきました。用心深い歩き方は昔から変わっていません。一歩ごとに足が砂利に深く沈み、音を立てます。気分が昂揚して、体に力がみなぎっているように見えます。まだ少し距離があるところで両腕を差し上げ、できるだけ大きなYの字をつくってから、わたしを抱きしめました。抱擁は長くつづきました。もうわたしより背が高くて、抱こうとすると少しかがまないといけません。顎をわたしの左肩にのせていて、長くて豊かな髪がわたしの視界の一部をさえぎります。抱擁を終えて上体を起こしたとき、ジョジーは笑顔で、でも一抹の悲しみも見せながら、こう言いました。
「今度戻るとき、もういないかもしれないのね。あなたはすばらしい友人だったわ、クララ。ほんとうの親友よ」
「ありがとうございます。選んでくれたこと、感謝します」
「簡単な選択だった」そして二度目の、やや短いハグをし、一歩下がって、「さようなら、クララ。元気でね」と言いました。
「さよなら、ジョジー」
車に乗り込みながら、ジョジーはもう一度元気に手を振りました。新しい家政婦さんにではなく、わたしにです。ジョジーとわたしは、この車がこの道路を走っていくのを幾度となく見てきました。いまも、車はいつもどおりに坂をのぼり、風に揺れる木々の前を通って、丘の向こうに消えていきました。
『クララとお日さま』カズオ・イシグロ著 p423〜424
まとめ
2021年に読んだ本の中で、今のところダントツ心に残っている、カズオ・イシグロ著『クララとお日さま』。
この作品を読んで、そういえば以前一緒に働いていたイギリス人の同僚に、
YOUは日本人なのになぜカズオ・イシグロを読まないんだ?
とくり返し言われていたのを思い出しました。数年の年月を経て、ようやくその魅力がわかった気がします。
そしてカズオ・イシグロ先生の作品の中でも『クララとお日さま』は、間違いなく傑作の部類に入ります。
この記事をきっかけに『クララとお日さま』を読み、その世界観を味わい、いろいろと考えを思いめぐらせていただけるとこんなに嬉しいことはありません。