「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない
——対人関係の悩み、人生の悩みを100%消し去る
がキャッチコピーの『嫌われる勇気』。
「これを読んだらすぐに100%悩みを消え去る!」とはさすがに言いすぎかもしれませんが、筆者もこの本と出会って、まさに脳天を打ち抜かれた1人。
その後、アドラー心理学を学び続けて、大袈裟じゃなく人間関係のストレス95%減くらいになりました。
本記事はアドラー研究者が、『嫌われる勇気』にとどまらず、アドラー心理学の本質が伝わるよう解説します。
【書評】『嫌われる勇気』要約・まとめ・感想
第一夜 トラウマを否定せよ
人はいつだって変わることができる|原因論→目的論
『嫌われる勇気』は、
人は変わりたくても変われない。
という青年に、
いや、そんなことはない。
人はひとりの例外もなく変わることができ、幸福になることができる。
と哲人が諭すところから始まります。人が変われない事例として、青年は引きこもりの友人を挙げます。
私の友人は外に出たいと願っているし、できることなら仕事を持ちたい。
今の自分を「変えたい」と思っている。
けれども彼は部屋の外に一歩でも出ると動悸がはじまり、手足が震えてしまう。つまり変わりたくても変われない。
引きこもりの彼の「過去」に、虐待やいじめなどトラウマとなる「原因」があったと考えます。
このように「(過去の)原因→(現在の)結果」というように、過去によって現在が1対1で決まってしまうという考え方を原因論といいます。
しかし哲人は「両親から虐待を受けて育った人でも、それをバネに人生を好転させる人もいれば、そうでない人もいる」と反論します。
つまり、過去の原因が、現在の結果を100%支配しているわけではありません1。
アドラー心理学は、トラウマを明確に否定する2。もちろん過去の出来事は、人格形成へと強く影響をあたえます。しかし大切なのは、それによってなにかが “決定” されるわけではない3ということです。
アドラー心理学は、原因論ではなく目的論で考えます。目的論とは、人が行動するとき、必ずなにか目的がある4という考え方のこと。
引きこもりでいえば、
原因:いじめを受けた → 行動:(仕方なく)引きこもり
という原因論では、「〇〇だから、できなくても仕方ない」「私が悪いわけじゃない」となり、人は変われません。
一方の目的論は、
目的:親に心配してもらいたい → 行動: 引きこもり(という手段を自ら選ぶ)
というように「目的達成のために、あなた自身が言い訳をこしらえている」と考えます。すべてを選択しているのはあなた自身なのであり、「あなたが変われば、すべてを変えられる」という発想になるのです。
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私たちは性格・気質ですら変えられる|ライフスタイル
「人は変われるか?」から始まった、第一夜の哲人と青年の議論。青年は、
残念ながらどんなに知識を積み重ねたところで、その土台にある気質や性格は変わらないんですよ!
と食い下がります。しかし哲人によると、私たちは気質や性格ですら変えることができるのです。
アドラー心理学では “性格や気質” をライフスタイルと呼びます。アドラーは、自らのライフスタイル(気質や性格)は自ら選びとるものであり、何度でも選びなおすこともできると考えました。
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第二夜 すべての悩みは対人関係
すべての悩みは対人関係|劣等感
第二夜で紹介されるキーワードが劣等感です。
劣等感とは「自分はこの程度の価値なのだ」という感覚のこと。
「悩みを消し去るには、宇宙のなかにただひとりで生きるしかない」
これはアドラーの言葉ですが、他人と比較するから劣等感は生じます。つまり、この世界から対人関係がなくなってしまえば、それこそ宇宙のなかにただひとりで、他者がいなくなってしまえば、あらゆる悩みは消え去ってしまうでしょう。
しかし、そんなことは原理的にあり得ません。人は社会的な文脈においてのみ「個人」になれる。そして、どんな種類の悩みであれ、そこにはかならず他者の影が介在しているのです。
劣等感は成長へのエネルギー!ただし…|劣等感と劣等コンプレックス
劣等感はなくした方がいいと思われるかもしれませんが、劣等感そのものは、悪くはありません。
劣等感は誰も抱く自然な感情であり、「未熟なので、もっと成長せねば!」と成長5へのエネルギーでもあります。
ところが、劣等感が強くなりすぎて、何もしないうちから「どうせ自分なんて」「どうせがんばったところで」とあきらめてしまう人たちがいます。
そのように、劣等感がマイナスに働いてしまう状態を「劣等感」と区別して、アドラーは「劣等コンプレックス」と呼びました。
劣等感:人がだれしも持っているもの。適度な劣等感は成長のモチベーションになる
劣等コンプレックス:大きすぎる劣等感。「どうせ自分なんて」「どうせがんばったところで」みたいに自らの劣等感を言い訳に使いはじめた状態のこと
わたしは学歴が低いから、成功できない…
わたしは器量が悪いから、結婚できない…
こんなふうに「Aであるから、Bできない」という論理を、口に出すこと・耳にすることはありませんか?
アドラーはこのような言い訳のロジックを見かけの因果律という言葉で説明しました。
本来なんの因果関係もないところを、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまう。
もちろん、そこに何らかの“相関関係”はあるかもしれません。
しかしながら、大事なことはそうした現実にどう立ち向かうかということ。結局そういう言い訳をするのは、「変わりたくない」という本人の意向に他ならないのです。
ここらへんアドラー心理学の厳しいポイント!
アドラーを学べば学ぶほど「言い訳」ができなくなってしまう。
「ごちゃごちゃ言ってるけど、結局あなたがやりたくないだけでしょ?」
となってしまうのです。
アドラー心理学では、さまざまな口実を設けて人生のタスクを回避しようとすることを「人生の嘘」と呼んだのです。
さらにアドラーはこんな言葉も残しています…
もしも自慢する人がいるとすれば、それは劣等感を感じているからにすぎない。
あなたの身の回りにも「自分にはすごい人脈があるぞ」「すごい経歴があるぞ」とことさらに自慢(マウンティング)する人はいませんか?
アドラー心理学ではこのような人たちは、結局のところ自分に自信がなく、強い劣等感を抱えていると考えます。
このように強い劣等感ゆえに自慢・マウンティングする人たちの心理状態を、アドラー心理学では優越コンプレックスと表現するのです。
優越コンプレックス:自分と権威を結びつけることで、あたかも自分が優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸ること
やたらと自慢をする人たちは、実は大きな劣等感を抱えている。逆にいうと「本当にすごくて自信のある人たちは、自分のことをことさらに自慢しない」ということです。
人生は他者との競争ではない
劣等コンプレックス・優越コンプレックスで苦しむ人たちには共通点があります。
それは、人生を他者との競争であると勘違いしているということ。
くり返し強調しますが、アドラー自身は健全な劣等感、成長することそのものを否定しているわけではありません。
けれどもあくまでもそれは、他者との比較からではなく「理想の自分」との比較から生まれるもの。
いまの自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値があるのです。
哲人はこの「競争しない」という感覚を
同じ平らな地平に、前を進んでいる人もいれば、その後ろを進んでいる人もいる。
〔…〕誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いていけばいい。
と表現します。
他者を競争の相手ではなく「仲間」であると実感できたとき、世界の見え方はまったく違ったものになるのです。
だれもが抱える「怒り」の感情も、他者との競争関係から分析することができます。
相手から「怒り」を向けられたとき、これは相手が「権力争い」を挑んできているのだと考えます。
そして勝つことによって、自らの力を証明したいと思っているのです。
もし、相手の「権力争い」に乗ってしまい、仮にそこであなたが勝ってしまったとしましょう。
すると相手はそこで終わることなく、別の場所、別のかたちで、なにかしらの復讐6をしてくることでしょう。(しかもそれはより過激な形を取ることが多い)
権力争いを挑まれたときは、絶対に乗ってはいけません。
また、相手と意見交換していて、いくら自分が正しいと思えた場合でも、それを理由に相手を非難しないよう気をつけましょう。
人は対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れてしまっています。
主張の正しさは、勝ち負けとは関係ない。
あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結すればOKです。
私自身はこれまで「怒り」の感情でたくさん失敗してきました。
「怒り」への向き合い方にはアドラー心理学の考え方を学び、随分救われたポイント。
「とにかく相手と戦わない」
「怒るということは、相手と権力争いをしている」
と自分に言い聞かせるだけで、かなり人間関係捗りますよ!
直面する「人生のタスク」をどう乗り越えるか|3つのライフタスク
ううむ。しかし、まだ問題は残ったままですよ。
あの「すべての悩みは対人関係の悩みである」という言葉です。
〔…〕
不思議なのは、どうしてアドラーがそれほどまでに対人関係を重視しているのか、「すべて」とまで言い切っているのか、という点です。
青年の疑問はつきません。
アドラーが対人関係を重視する理由…それはアドラーの哲学が「人生のタスク(ライフタスク)」をベースとして考えているからです。
まず、アドラー心理学では人間の行動面と心理面のあり方について、かなりはっきりとした目標を掲げています。
そして、これらの目標は「人生のタスク(ライフタスク)」と向き合うことで達成できると考えます。
人生のタスク(ライフタスク)とは、人間が生きていく上で、必然的に取り組んでいくこととなる3つの課題(タスク)のこと。
アドラーは人生のタスク(ライフタスク)を次の3つに整理しました。
人生で必然的に取り組む3つのライフタスク
仕事のタスク
- 仕事における他者との協力のこと
- 距離と深さという観点では仕事の対人関係がもっともハードルは低い
- この段階の対人関係でつまずいてしまったのが、ニートや引きこもり
交友のタスク
- 仕事を離れた、もっと広い意味での友人関係
- 仕事のような強制力が働かないだけに、踏み出すのも深めるのもむずかしい関係
愛のタスク
- いわゆる恋愛関係
- 家族との関係、とくに親子関係
これら3つのタスクは対人関係の「距離感」と「深さ」でむずかしさが変わります。もっともむずかしいのが愛のタスクであるとされます。
アドラー心理学では、人はひとりで生きていけず、社会的な文脈においてのみ「個人」となると考えます。
それは人間が人間として生まれ、そして人生をおくる限り、「仕事」「交友」「愛」という3つのタスクに絶対に取り組まなければならないからです。
アドラー心理学が「対人関係」を重視し、そして「自立」と「協調」を目標とするベースには、「人生のタスク(ライフタスク)」があるのです。
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第三夜 他者の課題を切り捨てる
承認欲求を否定する
第三夜は「自由」というテーマから始まります。哲人は次のように問いかけます。
仮にあなたが、金銭的な自由を手に入れたとしましょう。
そして巨万の富を得てもなお、幸福になれないのだと。
このとき、あなたに残っているのは、どんな悩み、どんな不自由なのでしょう?
金銭的自由を手に入れたとしても残り続けるもの…それは「対人関係」の悩みではありませんか?
巨万の富に恵まれてもなお、愛する人がいない…
親友と呼ぶべき仲間を持っておらず、みんなから嫌われている…
こんな人がいるとすれば、それは大きな不幸です。
私たちは、どこに行こうと他者に囲まれ、他者との関係性のなかに生きる“社会的な個人”でした。
つまり、結局は「すべての悩みは対人関係の悩みである」に行き着いてしまうわけです。
私たちは“社会的な個人”であり、どうやっても対人関係の頑丈な網から逃れることはできない
→金銭的自由を手に入れても「対人関係の悩み・不自由さ」だけは残り続ける
では、対人関係のなにがわれわれの自由を奪っているのでしょうか?
イヤな上司や苦手な同僚など、いわゆる「敵」だけがあなたの自由を奪っているわけではありません。
大切な家族や友だちなど、あなたにとっての「仲間」であるはずの存在が、ときにあなたの自由を奪っているように感じることはありませんか?
対人関係における“不自由さ”の根底にあるもの…それは「承認欲求」なのではないか?と、哲人は問います。
つまり、他者の期待を満たすために生きていると、どんどん不自由になっていくというわけです。
アドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定します。
われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。
〔…〕
他者の期待など、満たす必要は無いのです。
そう哲人は断言します。
他者から承認されてこそ、我々は自分には価値があると実感できると、思うかもしれません。
しかし他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。
自分が自分のために自分の人生を生きないのであれば、一体誰が自分のために生きてくれるでしょう?
あなたは他者のためにではなく、自分のために人生を生きてよいのです7。
あなたを自由にする「課題の分離」
あなたが対人関係の不自由さから解放されるとっておきの方法、それが「課題の分離」です。
課題の分離は、問題が起きたときに「その問題の結果を最終的に引き受けるのは誰か」を考え、課題の当事者を見極める方法です。
例えば、「子どもが宿題をしない」という問題に、親は怒ったり、子どもの宿題を代わりにやってあげたりしがち。でも、そのやり方では課題は分離できていません。
「課題の分離」の考え方では、まず「宿題をしないのは誰の課題か?その結果を最終的に引き受けるのは誰か?」と問います。
宿題をしないことで成績が下がったり、先生に注意されたりするのは子ども自身。つまり、これは「子どもの課題」だと判断できます。だからこそ、親は過干渉を避け、基本的に子ども自身に問題の対処を任せるべきなのです。
たとえ親であったとしても、子どもに強制的に宿題をさせようとするのは、他者の課題に対して、土足で踏み込むような行為8です。
哲人はいいます。
あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むことーーあるいは自分の課題に土足で踏み込まれることーーによって引き起こされます。
課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう。
「課題の分離」は、自由への道です。
他者の課題に介入すること、他者の課題を抱え込んでしまうことは、自らの人生を重く苦しいものにしてしまう。
もしも人生に悩み苦しんでいるとしたら、その悩みは対人関係なのだから、まずは「ここから先は自分の課題ではない」という境界線を知りましょう。
そして他者の課題は切り捨てるのです。それがあなたの人生の荷物を軽くし、人生をシンプルなものにする第一歩となるでしょう。
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自由とは他者から嫌われることである
第三夜では、
- 他者からの承認を求め続ける生き方
- 「課題の分離」ができていない生き方
のように、他者の期待を満たすように生きる=不自由な生き方であることを見てきました。
けれども、なぜ私たちは不自由な生き方を選ぶのでしょうか?
どうしてそんな不自由な生き方を選んでいるのか?
〔…〕
要するに誰からも嫌われたくないのでしょう。
と哲人はいいます。
もちろん、嫌われたいと望む人など誰ひとりいません。けれども、全員から嫌われないということは、現実問題として不可能です。
嫌われたくない!と思って八方美人な対応をすると、結局だれかに対して嘘をつくことになります。
つまり、他者から嫌われないようにする生き方は、自分に嘘をつき、周囲の人々にも嘘をつき続ける生き方なのです。
これは、自己中心的に生きろというわけでも、積極的に嫌われることをしろという意味でもありません。しかし、自由を得たければ、他者から嫌われることを怖れてはならない。
あなたがだれかに嫌われているということ…それはあなたが自由を行使し、自由に生きている証。
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできません。
「わたしのことを嫌うかどうか」は他者の課題。そこに介入することはできないのです。
タイトルにもなっている「嫌われる勇気」の意味が哲人から語られます。
これは「嫌われてもいいから自己中心的に生きよう」という意味ではないことに注意されてください。
人間は他者とともに生きているので、ジコチューはNGなのです。
けれども、だからと言って他者に依存しすぎるのも違う…。
その折り合いをつけるのが「課題の分離」であり「嫌われる勇気」なのです。
↓【あわせて読みたい】こうした誤解を考察したのがこちらの記事です。
第四夜 世界の中心はどこにあるのか
『嫌われる勇気』もいよいよ後半戦へ。
アドラー心理学の最重要概念「共同体感覚」へと議論が深まっていきます…
“自己への執着”から“他者への関心”へ(対人関係のゴール「共同体感覚」)
第三夜は「課題の分離」について、青年が次のような疑問を投げかけるところから始まります。
課題の分離は他者とのつながりを失う、孤独な生き方ではないか?
これはきわめて自己中心的な、誤った個人主義なのではないか?
これに対し、哲人は次のように答えます。
良好な対人関係を結ぶには、ある程度の距離が必要だ。密着してしまうと、向かい合って話すこともできない。しかし、距離が遠すぎてもいけない〔…〕
課題の分離は、他者を遠ざけるための発想ではなく、複雑に絡み合った対人関係の糸をときほぐしていくための発想なのだと考えてください。
つまり、対人関係は課題を分離したところで終わるものではない。課題を分離することは、対人関係の出発点だというのです。
では、アドラーは対人関係のゴールはどこにあると考えているのか?
哲人はそれを「共同体感覚」という重要概念から説明します。
共同体感覚(social interest)9とは、他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられること
アドラー心理学では「すべての悩みは、対人関係の悩みである」と考えました。
これは逆にいうと、幸福の源泉もまた対人関係にあるということ。
そして、共同体感覚とは、幸福な対人関係のあり方を考えるもっとも重要な指標なのです。
共同体感覚は英語で“social interest”。これは直訳すると「社会への関心」を意味します。
つまり共同体感覚とは、自己への執着(self interest)を、他者への関心(social interest)に切り替えていくことなのです。10
しかし青年は納得いかず、次のように問いかけます。
わたしの人生が一本の長編映画だとした場合、主人公は間違いなく「わたし」なのですよ?
主人公にカメラを向けることがそんなに糾弾されるべきことなのですか?
たしかに、自分の人生における主人公は「わたし」です。
しかし「わたし」は人生の主人公ではあるのですが、あくまでも共同体の一員であり、全体の一部にすぎません。
自分にしか関心を持たない人は「人生の主人公」を飛び越えて「世界の主人公」になっています。
こうした人たちが他者と接するとき「この人はわたしに何を与えてくれるのか?」ばかり考えます。
しかし、その期待が毎回満たされるわけではないから人生は苦しいものになってしまうのです。
このような「自分が世界の中心(self interest)」という発想から抜け出す。
「この人はわたしになにを与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるか?」へと問いを変えましょう。
そして「他者への関心(social interest)」つまりは、他者・共同体へと積極的にコミット11していく。
人間の本能にある所属感とは、ただそこにいるだけでは得られない。他へと貢献することによってはじめて得られるのです。
アドラー心理学の対人関係のゴール:共同体感覚
→自己への執着(self interest)から脱け出し、他者への関心(social interest)へと切り替える
→他者・共同体へと貢献することで、人は所属感を感じることができる
より大きな共同体の声を聴け
共同体に貢献することで、所属感を持てといわれても、会社とか家庭とか目の前の共同体がそもそも好きになれないよ…
そんなことを思う人もいるのではないでしょうか?
そんなあなたには特に知ってもらいたい、共同体感覚の大事だけれどもわかりにくいポイント…
それは、共同体感覚でいう「共同体」が、会社とか家庭とか身近な「共同体」だけではないということ。
それは国家をも超え、過去から未来のすべての人類、果てには動植物や無生物、宇宙全体までも含まれるとされます。
といわれても、よくわかりませんよね…。とりあえずまずは、目の前の共同体にこだわらなくてもOK!と理解しましょう。
哲人はこのことを、次のようにいいます。
われわれが対人関係のなかで困難にぶつかったとき、出口が見えなくなってしまったとき、まず考えるべきは「より大きな共同体の声を聴け」という原則です。
学校、会社、家庭…あなたが所属する共同体になじむことができずに苦しいとき、アドラー心理学のアドバイスは「より大きな共同体の声を聴け」ということ。
たとえば、あなたの学校で、教師が絶対的な権力者として振る舞っていたとします。
しかしそんな権力や権威は、学校という小さな共同体だけで通用する話であって、それ以上のものではありません。
「人間社会」という共同体で考えるなら、あなたも教師も対等の「人間」です。理不尽な要求を突きつけられたのなら、正面から異を唱えてかまわないのです。
もちろん、目の前の教師に異を唱えるのは、むずかしいと感じるかもしれません。
けれども、哲人は言います。
もしもあなたが異を唱えることによって崩れてしまう程度の関係なら、そんな関係など最初から結ぶ必要などない。こちらから捨ててしまってかまわない。
関係が壊れることだけを怖れて生きるのは、他者のために生きる、不自由な生き方です。
われわれは、目の前の小さな共同体に固執することはありません。
もっとほかの「わたしとあなた」、もっとほかの「みんな」、もっと大きな共同体は、かならず存在するのです。
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課題の分離→横の関係→勇気づけ→共同体感覚
『嫌われる勇気』でわかりづらいのが
- 課題の分離:相手の課題を切り捨て、自律的に生きる
- 共同体感覚:共同体のなかに所属感をもつ
というのが、一見矛盾しているように思えることです。
青年もこの点に疑問をもち、
「課題の分離」からどうやって対人関係を築き、最終的に「ここにいてもいいんだ」という共同体感覚まで至ればいいのです?
と問いかけます。
このことについての哲人の答えは正直とてもわかりづらいのですが、ずばりまとめると次のようになります。
ここで「課題の分離」によって、1人1人がバラバラに切れてしまうのではなく、関係性が「横の関係」に変わっていくというのが最初の関門です。
人間関係には、上下の優劣でとらえる「縦の関係」と、対等に協力し合う「横の関係」の2つがあるといいます。(それらを比較したものが次の表)
アドラー心理学ではあらゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱します。
なお面白いのが、人間は「この人とは対等に」「こっちの人とは上下関係で」とはならないということ。
つまり、縦の関係か横の関係か、どちらか一方しか選べません。
そして、もしもあなたが誰かひとりとでも縦の関係を築いているとしたら、あなたは自分でも気づかないうちに、あらゆる対人関係を「縦」でとらえているといいます。
課題を分離すると、1人1人がバラバラになるわけではなく、関係性が「横の関係」へと変化する
もう1つポイントなのが、「横の関係」は相手を評価せず、相手の貢献に感謝します。(これを “勇気づけ” という)
そして、人は他者からの感謝によって「自分には価値がある、共同体にとって有益なのだ、他者に貢献できている」と思えるのです。
そして「自分は貢献している」と実感できたとき、人は共同体への所属感「共同体感覚」をもつことができるわけです。
課題が分離された「横の関係」では、相手を評価せず、感謝し勇気づける
→相手は貢献感を実感することができ、共同体感覚をもつことができる
障害を持った人やニートとか社会に貢献しない人(できない人)はどうなるの?
ここはかなり要注意ポイントなのですが、アドラー心理学では「行為13」のレベルではなく、「存在」のレベルでの貢献を感じ、感謝していきます。
つまり、生きていることそのものに価値があるという考え方なのです。
存在そのものに価値があり、世界へと貢献している…。
これは1つの「信仰」だといってよいでしょう。
あなたはこのアドラー心理学の考え方を受け入れますか?それとも疑問を持ちますか?
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第五夜「いま、ここ」を真剣に生きる
自己への執着から抜け出すために必要な3つのこと
第五夜では、共同体感覚への歩み方について、より具体的に説かれます。
哲人によると、共同体感覚を獲得するためには次の3つのことが必要です。
最初のステップは自己受容。
自己受容とは「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく前進して行くこと。
これは、できもしないことに対しても「私はできる」と自己暗示する「自己肯定」とは明確に区別されます14。
自己受容に続くのが、他者信頼。
他者信頼とは、いっさいの条件をつけずに他者を信じることです。
これは、条件つきで相手を信じる「信用15」とは区別されます。
もちろん、これは万人を無条件で信頼しなくてはならないという意味ではありません。また、信頼して裏切られることだってあるかもしれません。
しかし、信頼することを怖れていたら、結局はだれとも深い関係を築くことはできないのです。
だれかと横の関係を築こうと思ったとき、まず相手のことを“無条件に”信頼してみることを、アドラー心理学では提案します。
そんなの無理だよ!と思うかもしれませんが、これは「心持ち」「考え方」「信念」みたいな話。アドラー心理学とはひとつの思想なのです。
「自己受容」と「他者信頼」ができたとき、あなたにとって他者とは仲間だと思えるでしょう。
そして仲間である他者に対して、なんらかの働きかけをする、素直な気持ちから貢献しようとする。これが他者貢献なのです。
ここでの他者貢献は、自分を捨てて相手にただただ尽くす自己犠牲とはちがいます。
たとえば仕事などで、相手に尽くすなかで「ここにいていいんだ!」「自分の生きがいはこれだ」という存在価値を感じたことはありませんか?
アドラー心理学の他者貢献とは、こうした「利他(他者のため)=利己(自分のため)」という境地の話です。
さて、共同体感覚への道である「自己受容」「無条件の信頼」「他者貢献」は、いざ実践してみるとかなり難しいでしょう。
実際、アドラー心理学をほんとうに理解して、生き方まで変わるようになるには「それまで生きてきた年数の半分」が必要になるとさえいわれています。
けれども、正しい道を歩んでいれば、必ずやあなたは自分の人生を変えることができる…。
また、もしあなたがアドラー心理学と若くして出会ったとしたら?それは世の大人たちよりも前を歩いていることを意味すると哲人は励ますのです。
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『嫌われる勇気』を学んで、自分の人生に生かしていきたいんだけど、どんなことが書いてあるんだろう?「アドラー心理学」の理論や用語にこだわらず、あえて『嫌われる勇気』らしい名言を厳選しました。
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「嫌われる勇気」実践法を3つのステップに分けて解説。この記事を読むと「嫌われる勇気」を生活で生かしていく具体的な道筋が見えます。
『幸せになる勇気』の名言7選
名著『幸せになる勇気』の中から、人生に役立つ名言7つを厳選。教育関係の話が多いので、学校の先生をはじめ、教育関係者にぜひ読んでいただきたい1冊。専門理論や用語は避けて書きました。
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自由とは、他者から嫌われることである