『国宝』吉田修一|芸を極めた男の美しき狂気【書評・あらすじ・感想】

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父の仇を討とうと中学の朝礼中にドスを持って飛び出した少年が、いかに日本の「国宝」と呼ばれる女形になったのか。

答えを求めて読み進むうちに、気がつけば自分もまた、この稀代の役者・立花喜久雄と同じ時間を生きていることに気づく。これが吉田修一『国宝』の魔力だ。


物語は1964年元旦、長崎の任侠の世界から始まる。立花組の跡取り息子として生まれた喜久雄は、父を抗争で失い、復讐に失敗した後、思いがけず大阪の歌舞伎役者・花井半二郎の元に引き取られる。

そこで出会ったのが、半二郎の息子・俊介。生い立ちも才能も異なる2人の男が、芸の道で50年にわたって切磋琢磨し、時に支え合い、時に憎み合いながら頂点を目指していく——それがこの物語の骨格だ。


だが、この物語が読む者の魂を震わせるのは、波乱万丈な人生劇そのものではない。それは「演じること」の狂気を容赦なく描き切ったからだと私は思う。

舞台に立つ瞬間、喜久雄の中に何かが憑依する。それは技術を超えた、魂の変容だ。どんな困難が降りかかっても、どれほど打ちのめされても、舞台に立てばまた別の人間になる——そんな役者の業を、吉田修一は一切の妥協なく描写する。

そして読み進むうちに、何度も息を呑む瞬間に出会う。絶望の淵に立たされた役者が、それでも舞台に立とうとする執念。栄光の座から転落した時にさえ、芸への渇望を止められない狂気。そこには、芸に魂を売った人間だけが到達できる美しさと恐ろしさが同居している。


なぜこれほどまでに圧倒的なのか。その秘密は、吉田修一の卓越した技法にある。

まず語り口が独特だ。

その年の正月、長崎は珍しく大雪となり、濡れた石畳の坂道や晴れ着姿の初詣客の肩に積もるのは、まるで舞台に舞う紙吹雪のような、それは見事なボタ雪でございました。

冒頭から立ちはだかるこの文体は、朝ドラで一家の運命を見守る語り部のような、あるいはまるで歌舞伎の神様が天から見下ろしているような。最初は面食らうが、読み進むうちにこの語り口こそが物語の核心だと理解できる。


加えて、吉田修一が3年間歌舞伎の黒衣を纏い、楽屋に入った経験が作品全体に血肉として息づいている。

舞台での緊張感、白粉の匂い、観客の熱気——歌舞伎の世界が手に取るように描かれ、歌舞伎を知らない読者でも、まるで桟敷席にいるような錯覚に陥る。特に歌舞伎の演目が物語に重層的に織り込まれる手法は見事で、喜久雄たちの運命と古典の世界が絶妙に呼応する。

こうした技法が結実して生まれたのは、単なる歌舞伎小説ではない。『国宝』はひとつのことに人生を捧げることの美しさと残酷さを描いた普遍的な物語である。

「この一生、歌舞伎役者にて」という覚悟で生きた男の軌跡を追ううちに、読者もまた自分自身の人生と向き合うことになる。

ただし、この作品は確実に読者を選ぶ。独特の語り口と長大な分量は、読書に慣れ親しんだ人向けだろう。しかし、その壁を越えた先には、他では決して味わえない圧倒的な読書体験が待っている。


李相日監督による映画化作品は評判も上々だ。子どもが生まれてからというもの、映画ましてや邦画を見に行くことはほとんどないのだが、これは行くしかない。

そして最後に、『国宝』の audible 版も強く推薦したい。朗読するのが歌舞伎役者の尾上菊之助で、その語りからは、まるで目の前で歌舞伎が演じられているかのような臨場感が伝わってくる。文字だけでは表現しきれない歌舞伎の世界の奥深さを、音として体験できるのだ。


喜久雄の人生を追い終えた時、読者もまた何かから解放されたような、あるいは何かを失ったような、複雑な感情に包まれる。それは1人の人間が芸に捧げた命の重さを、共に背負った証なのかもしれない。

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