
『民主主義と教育』って名著って聞くけど、難しすぎてわからない。
『民主主義と教育』の大事なポイントだけを教えて欲しい。
この記事では、20世紀前半の古典にして名著『民主主義と教育』(ジョン・デューイ著)をわかりやすく要約して、そのエッセンスをお届けします。
✔︎ 補足:記事の信頼性
この記事を書いている人(@atsukuteyurui)のプロフィールは以下の通り。

『民主主義と教育』とは
原題:Democracy and Education
著者:John Dewey(ジョン・デューイ)
出版年:1916
内容:
教育とは直接的な経験から出発し、これを絶え間なく再構成・拡大深化してゆく過程である。従って、それは子どもや学校の問題にとどまらない。とすれば民主主義社会における教育とは何か。教育に関する在来の学説をこの観点から根本的に洗い直し、デューイ自身の考え方を全面的に展開し世界の教育界の流れを変えた20世紀の古典。
(「BOOK」データベースより)
和訳は、以下の岩波文庫から上下巻で出ています。
この本はとっても情報量が多く、完全に要約することはとっても大変です。
ですが、この記事では本のタイトルにもなっている「民主主義」と「教育」をキーワードに、以下のポイントに絞って要約していくことにします。
デューイの考える「民主主義」
デューイの言う「民主主義」は、一般的に用いられがちな、単なる政治形態としての民主主義を意味するものではありません。
「民主主義」とは、人々が生きる社会、政治的活動にとどまらない共同生活全般に対して適用される理念であり、「共同生活の一様式1」だと説明されます。
多様な小集団一つ一つが「社会」
「民主主義」は、多様な社会集団に属する人々の共同生活の中で、絶えず実現され続けるものです。
ここでのポイントは、デューイは「多様な社会集団」を考えており、一つのまとまりとして「社会」を捉えていないというところです。
私たちの世界には、例えば、会社、学校、宗教団体、政党、家族など、様々な価値観や物語をもった、多様で小さな集団が存在しています。
小集団の中で、人々はなんらかの目的のために結びついて生活しているのです。

デューイは、それら一つ一つの小集団こそが「社会」そのものであると考えます。
そして、そのような多様な小集団・小社会がゆるく結びついているとデューイは見るわけです。
多様な価値観をもった小集団一つ一つが小さな社会。
それらがゆるく結びついて存在している。

これはデューイの民主主義論の前提となる「社会」の捉え方です。
『民主主義と教育』の第7章に書かれている内容です。
「民主主義」とは多様性があふれ、それらが自由に交流している社会
この世界にはたくさんの小集団・小社会が存在しています。
そして、それら一つ一つの個別具体的な小集団には民主的なものとそうでないものがあるとデューイは考えます。
その小集団の中で、「民主的なもの」と「民主的でないもの」を決めるのが以下の2つの基準だとされます。

意識的に共有している関心が、どれほど多く、また多様であるか、そして、他の種類の集団との相互作用が、どれほど充実し、自由であるか、ということである。〔…〕要するに、そこには、意識的に伝達され、共有される多くの関心が存在し、他の共同様式との多様で自由な接触点が存在するのである。
『民主主義と教育』(上) p136
簡単にまとめると次のようになります。
(1)共有される関心が多様であること
(2)他集団との多様で自由な接触点があること

例えば、窃盗団という小集団を考えてみましょう。
彼らは盗品についての限定的な関心を共有しますが、それ以上に関心が多様になることはないでしょう。(一つ目の基準2が満たされない)
そして、窃盗団は他集団から自分たちを孤立させることによってしか行動することができず、他集団との接触点が多様であるとも言えません。(二つ目の基準3が満たされない)
このように限られた価値観しか認められず、別の価値観をもつ外部との多様な接触点がない社会は民主的とは言えません。
すなわち、「民主主義」とは多様な価値観に開かれていて、「民主主義」という単一の理想、単一の価値観へと導くわけではないのです。
さらにデューイは、「相互の関心を社会統制の一要因として確認することにより深い信頼をおく4」と述べています。
つまり、「民主主義」では、ただ価値観の多様性が強調されるだけにとどまりません。
自分とは違う価値観を持つ者を認め、互いに関心を持つことでまとまりが生まれるような社会が考えられているのです。
「民主主義」は多様な関心・価値観が尊重され、さらにそれらが相互に接触し合っている社会である。
「民主主義」は社会・個人の進歩へとつながる

さて、このように多様な価値観に開かれた「民主主義」の社会では、それぞれの集団は新たな考え方や刺激に触れ続けます。
そのとき、新たな価値に触れた集団は、他からの影響により自らを変化させることとなり、進歩・成長していくのです。
またこの時、社会を構成する個人も多様な価値に触れることができます。
すると「行動への誘因が偏っている限り抑圧されたままでいる諸能力が、多数の多様な接触点によって解放される5」のです。

いろんな刺激があるからこそ、初めて人は成長できるってわけだね!
「民主主義」においては、個人が所属する社会集団は多様性へと開かれ、新たな考え方や価値観に絶えず触れ続けることができる。
→集団も、個人も変容を止めずに、進歩・成長していく。
デューイの考える「教育」
なぜ民主主義と「教育」なのかというと、「民主主義」と「変化・成長」というのは必ずセットだからです。
「民主主義」の社会では、人々は常に新たな刺激の中で「成長」していきます。
つまり、「民主主義」の社会で生きることそれ自体が、人間を成長へと導く教育的なものなのです。
人間とは自己と環境とを絶えず更新し続ける存在である
デューイの考える「教育」を理解する上で、重要になるのが彼の人間観です。
個人とは「改造の主体6」
→人間は、自己と環境とを絶えず改造・更新・再組織化し続ける存在
これは、デューイの人間観であると同時に、彼の教育観の前提、あるいは教育観そのものと言ってもよいでしょう。
彼は、「生存を続けようと努力することは生命の本質そのもの7」であり、それは「不断の更新によってのみ確保されうるのであるから、生活は自己更新の過程8」であると述べています。
つまり、社会的環境を持つ人間が生命を維持していくためには、絶えず自らを更新することで、自ら属する社会集団へと順応していかねばならないのです。

つまりは社会に適応するために、柔軟に変化していくという感じ?

うん、確かにそういうところもあるんだけれども、もう一つ大事なことがあるんだ。

もう一つ重要なのは、自らに合わせて環境や社会を改変していく、作り替えていくという面もあるということです。
デューイによると、大事なのは「目的を達成するための手段を制御するという能動的な意味に適応を解すること9」であり、「われわれの活動を環境へ順応させることであるのと全く同じくらい、環境をわれわれの活動に順応させる10」ことなのです。
つまりデューイは、単なる社会適応だけではなく、個人が社会変革していく側面を強調していることがわかります。
人間は、絶えず自分自身が環境へと順応していくだけでなく、環境を自分自身へと順応させ続けていく存在である。(個人は改造の主体)
葛藤があるところに成長がある!

人間は自分自身と環境とを絶えず改造・更新していくわけですが、そこには困難がともなうとデューイは考えます。
デューイは人間には「習慣11」が備わっていると考えます。
そして、自己を改造・更新するプロセスでは、習慣の再調整が起こっており、それは「重苦しい努力」を伴う「不愉快な状況」だとされるのです12。
当然こうした状況に人は心をそらせがちで、今までの生きやすかった習慣に安住しようという誘惑に駆られるでしょう。
しかし、それに甘んじてしまうと、「自己についての観念を狭く限定し、孤立させること13」へとつながってしまうのです。

新しい環境に行くと居心地の悪さを感じたり、疲れたり…
要はそういう話でOK?

そうそう!単純にそういう話!
そういうときに、人は慣れている環境に逃げがちだよね…ってこと。

それに対して、彼が伝えるのは「一時的な失意に耐え、障害に直面しても屈しないで、楽しいことも苦しいことも共に引き受けることのできる14」生き方です。
つまり、自己を更新していくことは、困難や葛藤を伴う作業であるには違いありません。
しかしながら、葛藤や困難を克服するところにこそ、成長があるのです。
新たな環境に入り、いろんな刺激の中で変化していくことは困難をともなう。
けれども、そうした困難を克服した先にこそ成長は待っている!
教育はいかに「連続的な自己更新」を起こせるかが大事
このように、個人は困難をともないつつも、自己更新・成長しながら社会へと順応していくわけです。
しかし、幼い子どもを想像すればわかるように、その最初の能力と環境との間には大きなギャップがあります。

ギャップが大きすると、一気には環境に順応できません。
そこで、そのギャップを埋めるものとして、教育が必要になってきます。
特にこれだけ複雑化され知識もたくさん蓄積されている社会では、計画的な学校教育が必要とされるのです。

デューイは「教育の過程は連続的な再編成、改造、変形の過程15」であると述べています。
つまり学校は、個人が「連続的に」成長していけるような、大きすぎることも小さすぎることもない、適度な葛藤を引き起こしていく場となることが期待されるのです。
葛藤があるから成長がある。
→個人が連続的に成長していけるような適度な葛藤を、意図的に引き起こしていくのが学校教育の役割
「民主主義」を実現する「教育」
デューイは「教育」において、個人の「連続的な成長」を大切にしました。
そして、デューイは「民主主義」を実現する「教育」の中で、個人の連続的な成長を引き起こそうとしたのです。
では、「民主主義」を実現する「教育」とはいったいどんなものなのでしょうか?
学校を「小さな社会」にする
デューイの場合、目指すのは「民主主義」の社会でした。
したがって教育においても、学校そのものが「民主主義」の性質を兼ね備えた「小さな社会」となることが目指されます。

学校そのものが、社会生活というものの意味するすべての点において、社会生活でなければならない。社会的認識や関心は、真に社会的な環境――共通な経験を築き上げるように対等な立場でのやりとりが行なわれる環境――においてのみ、発達させることができる。〔…〕 われわれは、授業を受ける場所として、生活から切り離された学校の代わりに、学業や成長が当面の共有された経験に随伴して起こるような縮図的な社会的集団を設けるのである。
『民主主義と教育』(下) p243

さきほど紹介した民主主義の2つの基準をもう一度確認しましょう!
(1)共有される関心が多様であること
(2)他集団との多様で自由な接触点があること
つまり、デューイは、学校が一つの小さな社会として、これら2つの基準を満たしていかねばならないと言うわけです。

学校が「民主主義」の社会となったとしたら、それは学校外のいろいろな社会集団と自由に交流していくこととなります。
このように、学校は校舎の中や教室の中だけで完結させるべきものではないとされます。
学校は一つの「小さな社会」として、今ここに「民主主義」が実現される場となるでしょう。
そこで生徒は「民主主義」の社会の一員として、社会生活や民主的な協働へと有効に参加する能力を身につけていくわけです。
そして、「民主主義」の社会となった学校では、多様な関心や刺激にあふれているので、その中で個人の個性や能力も育まれると考えられます。

1939年の『創造的民主主義ー来るべき課題』と題された論文では、「民主主義」は、人間の可能性や本性、他者との協働を信じる一つの「生き方」であると論じられます。
つまり、「民主主義」とは、小さな小集団に適用されると同時に、個人の「生き方」そのものでもあるとされるなど、とっても幅広い考え方なのです。
学校が「民主主義」の実現される「小さな社会」となる
→個人には「民主主義」が生き方として育まれていく
→多様な刺激に触発されて、個人の個性や能力も育まれていく
「民主主義」を現在視点から育む

「民主主義」が生き方として育まれるって、つまり「民主主義」は“社会性”みたいなもの?
つまり、「民主主義社会で活躍できる人を育てよう」っていう感じなのかな?
はい、確かに「民主主義」は“社会性”とよばれるものを含みますし、「民主主義」の教育では民主主義社会を実現していける人を育てるという側面があります。
しかし、デューイはこんなことも言っているのです。

教育の過程はそれ自体を越えるいかなる目的ももっていない、すなわち、それはそれ自体の目的なのだ…
『民主主義と教育』(上) p8
簡単に言うと、「教育の目的は教育それそのもの」であるということ。
何か、遠くにある「理想の完成像」に近づけるものではないということなんですね。

え!「民主主義」はどこに行ったの?
「民主主義」は教育の目的ではないの?
難しいポイントですが、「民主主義」を生き方として育むことは確かに教育の目的だと言ってよいでしょう。
ですが、とっても簡単にいえば、それはあくまでも現在の目の前の「あなた」から始めなければいけないということです。
さっきの話を思い出してください。デューイが目指すのは「連続的な成長」を引き起こす教育でしたよね。

例えば私たちはよく教育目標や目的を設定します。
しかし、そうした教育目的も「毎瞬毎時間活動を続けて行くときに、観察や選択や計画を助ける限りにおいて、価値がある16」 とされます。

とにもかくにもまずは「目の前の子どもの今の姿から始めましょう」ということです!
もちろん、これは未来の視点が全くないというわけではありません。
デューイは、「現在から生成する未来が大切にされることになるのは確かである17」と述べています。
けれども、ここで気をつけるべきは、未来と言っても、それは“現在視点からの絶え間ない更新の先にある未来”でなくてはならないという点なのです。

現在の経験をできるだけ豊かに有意義にすることにあらゆる精力を傾注することが絶対に必要なのである。そうすれば、現在は気づかぬうちに未来にのみ込まれて行くのだが、それにつれて未来が大切にされるわけである。
『民主主義と教育』(上) p96
デューイに言わせると、“将来のために今我慢する”という考え方は完全に間違いなのです。
教育の目的は教育それ自体
→「民主主義」を育むと言っても、遠くにある「理想の人格」から逆算して考えるのではない
→必ず目の前の「あなた」の今の姿から考えなくてはならない
参考文献
『民主主義と教育』は以下の岩波文庫の翻訳がオススメです。本自体の難しさはありますが、訳としてはとっても読みやすくてよい訳だと思います。
デューイ全般の入門書としては、この本がとってもオススメです。
教育論だけでなく、民主主義論とか、宗教論とかも幅広くまとめられています。
まとめ
○デューイの言う「民主主義」とは?
✔︎「民主主義」の2つの基準
(1)共有される関心が多様であること
(2)他集団との多様で自由な接触点があること
→「民主主義」は多様な関心・価値観が尊重され、さらにそれらが相互に接触し合っている社会
✔︎「民主主義」においては、個人が所属する社会集団は多様性へと開かれ、新たな考え方や価値観に絶えず触れ続けることができる。
→集団も、個人も変容を止めずに、進歩・成長していく。
○デューイの言う「教育」とは?
✔︎ 人間は、絶えず自分自身が環境へと順応していくだけでなく、環境を自分自身へと順応させ続けていく存在である。(個人は改造の主体)
✔︎ 新たな環境に入り、いろんな刺激の中で変化していくことは困難をともなう。けれども、そうした困難を克服した先にこそ成長は待っている!
✔︎ 葛藤があるから成長がある。
→個人が連続的に成長していけるような適度な葛藤を、意図的に引き起こしていくのが学校教育の役割
○「民主主義」を実現する「教育」
✔︎ 学校が「民主主義」の実現される「小さな社会」となる
→個人には「民主主義」が生き方として育まれていく
→多様な刺激に触発されて、個人の個性や能力も育まれていく
✔︎ 教育の目的は教育それ自体
→「民主主義」を育むと言っても、遠くにある「理想の人格」から逆算して考えるのではない
→必ず目の前の「あなた」の今の姿から考えなくてはならない
