・努力はしているんだけれども、思ったようにいかない…
・実力をなかなか正当に評価してもらえない…
・家族や部下など、人間関係の苦労が絶えない…
このような悩みを抱えていませんか?
筆者自身、職場で思ったようなポストに就けず、モヤモヤした経験がありました。しかし、そんなときタイムリーに読んでいたのが、今回紹介する『菜根譚』。この本のおかげで、けっして大袈裟ではなく救われたところがありました。
- 菜根譚(さいこんたん)
- 著者:洪自誠(こうじせい)
- 出版年:17世紀初めごろ(400年ほど前)
『菜根譚』は、人の生き方を説いた処世訓の最高傑作のひとつに数えられ、田中角栄、吉川英治、川上哲治ら各界のリーダーたちの座右の書でもあります。
本記事では、知る人ぞ知る名著『菜根譚』について、全360条1の中から厳選した名言とともに紹介。
この記事を読み終えたあなたは、『菜根譚』がどんな本かをわかりやすく知れるだけでなく、抱える悩みに対しても解決のヒントが見つかるかもしれません…。
なお『菜根譚』は“聴く読書”Audible(オーディブル)で聴き放題で聴けます。
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【名著】『菜根譚』とは?名言をわかりやすく解説
『菜根譚』とは
『菜根譚(さいこんたん)』のタイトルの意味
『菜根譚』は、「野菜の根の話」という意味。
なんだか美味しそうなタイトル!
料理の本かな?
きらら残念!
これは、人がいかに生きるべきかを説いた「処世訓」なのです。
「菜根」という言葉は、「人はよく菜根を咬みえば、すなわち百事をなすべし」という故事に由来するそう。つまり堅い野菜の根っこをかみしめるように、苦しい境遇に耐えられたとしたら、人は多くのことを成し遂げることができる。
タイトルからもわかるように『菜根譚』は苦しい逆境を生き抜くヒントにあふれた、「逆境の古典2」なのです。
『菜根譚』は儒教、仏教、道教をハイブリッドした処世訓
17世紀の初めごろ、今から400年ほど前に書かれた処世訓。数ある中国の処世訓の中でも最高の名著との呼び声もある本だそう。
中国古典は、処世の本がたくさんあります。しかし、『菜根譚』には他の本にはない大きな特徴が。それは、『菜根譚』が儒教、仏教、道教の思想のハイブリッドであるということ。そこから独特の味わいがかもし出されます。
例えば、老荘思想にある悠々自適な心境を語りながらも、必ずしもお金儲けや、立身出世的な価値観を否定するわけでもありません。また、厳しい現実を生きる処世術を説きながらも、心の救済にも多くのことばを費やします。
このように『菜根譚』のカバーする範囲はとても広く、読む人の境遇によっていろいろな読み方ができるところが大きな魅力です。
『菜根譚』の著者の洪自誠(こう・じせい)とは?
『菜根譚』は、明(みん)の時代末期に優秀な官僚として活躍した後、政治的な争いに巻きこまれ隠遁したと思われる3、洪自誠(こう・じせい)によって書かれました。
長らく歴史に埋もれ、世に知られるようになったのは初版から300年後。日本においても江戸後期の儒学者に絶賛され、その後明治から昭和にかけて広く愛読されました。
『菜根譚』が書かれた時代は、儒教的な道徳観は形骸化し、政治家や官僚たちは腐敗…。派閥争いの中で、優れた人材が追い落とされ、ずるがしこい人物だけがとりたてられていました。そのような生きづらい世相の中、何をたよりに生きればよいかわからない人に向けて『菜根譚』は書かれたのです。
それは、いろいろな価値観がゆらぐ中で生きていかねばならない、現代の私たちにも通じます。『菜根譚』では、洪自誠自身がまさにたくさんの逆境を経験したからこその、本質的な「生きるヒント」が綴られているのです。
『菜根譚』心に響く名言集
紹介する名言の出典は、すべて『[決定版]菜根譚』(守屋洋著/PHP研究所)より。
『菜根譚』は前集と後集とに分かれていますが、各条の区切り(「前集99」でいう「99」という数字の区切り)は本によって微妙に違うみたいです。
この記事では『[決定版]菜根譚』の区切りに基づいて書いています。
前集99 ピンチはチャンス、チャンスはピンチ
逆境にあるときは、身の回りのものすべてが良薬となり、節操も行動も、知らぬまに磨かれていく。
『菜根譚』前集99
順境にあるときは、目の前のものすべてが凶器となり、体中骨抜きにされても、まだ気づかない。
大きなピンチ・逆境に陥っているとき、この言葉が響きます。ピンチにあるということは、それは大きく成長しているという証拠。同時に絶好調で順風満帆だとしたら?油断大敵、ピンチが差し迫っているかもしれません。
そのどちらにおいても、私たちはなかなか気づけない。この言葉は、その事実に気づかせてくれます。
このように『菜根譚』は対句になっているパターンが結構あります。
どんな対になっているかを意識していくと、理解がより深まっていくでしょう。
こんな対句も見つけました。
子どもが生まれるとき、母親の生命は危険にさらされる。財産が多くなれば、それだけ泥棒に狙われる。どんな幸せも不幸のタネにならないものはない。
『菜根譚』後集120
貧乏だと極力ムダ使いを避けるし、病気がちだとふだんから健康に気をつける。どんな不幸も幸せのきっかけにならないものはない。
幸せも不幸も同じことだとみなし、喜びも悲しみも忘れてしまうのが、達人の生き方だ。
誰もが祝福するめでたい日である「子ども生まれた時」も、それはお母さんが危険に晒された日でもあるわけです。幸せは不幸のタネに、そして不幸も幸せのきっかけに。物事には必ず両面があるということを『菜根譚』は教えてくれます。
前集77 成功を焦らなくても大丈夫
長いあいだうずくまって力を蓄えていた鳥は、いったん飛び立てば、必ず高く舞いあがる。
『菜根譚』前集77
他に先がけて開いた花は、散るのもまた早い。
この道理さえわきまえていれば、途中でへたばる心配もないし、功をあせっていらいらすることもない。
なかなか芽が出ない、なかなか動けないと焦る気持ちはありませんか?『菜根譚』はそんなあなたに対して、逆境こそが力を蓄える時だと寄り添ってくれます。
成功を焦らなくても大丈夫、今は動けなくても大丈夫。じっくり力を蓄えれば、きっと必ず高く飛ぶことができるのです。
『菜根譚』は花や鳥など、自然に関する例えも多く、美しい名言が多いね!
同じテーマでこんな言葉もあります。
自分を磨くときは、金を精錬するときのように、じっくりと時間をかけなければならない。速成では、どうしても底が浅くなる。
『菜根譚』前集191
事業を始めるときは、重い大弓を発射するときのように、いやがうえにも慎重を期さなければならない。あわてて始めたのでは、大きな成果は得られない。
しっかり強く、じっくり焼かれないと、人は成長しません。焦らず、実直に力をつけていきましょう。
前集74 苦労の先の幸福は、いつまでも持続する
時には喜び、時には苦しみながら、その果てに築きあげた幸福であれば、いつまでも持続する。
『菜根譚』前集74
時には信じ、時には疑いながら、熟慮の末につかんだ確信であれば、もはや動かしようがない。
それこそ家族の関係もそうだし、仕事のこともそう。筆者自身、苦しいことをいっぱい乗り越える中で、少しずつ幸せが安定していくように感じることが結構あります。
ほかにも「どうやって生きていこうか?」というのも、何が正しい道なのか悩んで迷って…。けれども、少しずつ腹が据わっていく感覚もあったり。
みなさんはどうでしょうか?もちろん迷いながら苦しみながらかもしれないけれども、その先に本当の幸福、自分なりの確信を、獲得していきたいですね。
前集149 思わぬ罠はないか?広い視野を持とう
魚を捉えようとした網に、意外にも、大きい鳥のかかることがある。
『菜根譚』前集149
餌を狙っているカマキリを、後から雀がつけ狙っていることもある。
まったく油断もスキもない。
からくりのなかにからくりがかくされ、予想もつかない展開をするのが、この世のなかだ。人間の知恵や術数では、どうすることもできない。
ちょっぴりネガティヴにも見えるこの言葉も『菜根譚』らしいメッセージ。うまく行っていると思っても、思わぬ罠が待っているかも。「やったー!」と大喜びのとき、つい視野が狭くなりがち。しかし、そこに落とし穴はないでしょうか?
慎重に慎重を重ねる。
こういうメッセージが説かれるのは『菜根譚』著者の洪自誠が、かなり辛酸を舐め、不遇な扱いもたくさん受けてきたからだそうです。世の中をそんな簡単に信じてはいけない!と思っていたところがあるのでしょう。
後集123 “ほどほど”が最高
花を見るなら五分咲き、酒を飲むならほろ酔いかげん、このあたりに最高の趣がある。
『菜根譚』後集123
満開の花を見たり、酔いつぶれるまで飲んだりしたのでは、まったく興ざめだ。
満ち足りた境遇にある人は、このことをよく考えてほしい。
つい飲みすぎてしまう、食べすぎてしまう、ついやりすぎてしまうという人へ。『菜根譚』には「足を知る」という思想があります。何事も“ほどほど”が最高なのです。
前集13 一歩さがって道を譲る
狭い小道を行くときには、一歩さがって人に道を譲ってやる。
『菜根譚』前集13
おいしい物を食べるときには、三分をさいて人にも食べさせてやる。
こんな気持で人に接することが、すなわちもっとも安全な世渡りの極意にほかならない。
みなさんは出世競争や、ポスト争いに苦労していませんか?
筆者自身「思ったようなポストにつけない」ということを経験したとき、最も響いたのがこちらの言葉。けれどもそんなときに「譲ってあげればいいじゃないの」と『菜根譚』は提案します。
これは、決してただ負けてもいいということではなく、進むためにまず退くことがよいというのです。
この世のなかを生きていくには、人に一歩譲る心がけを忘れてはならない。
『菜根譚』前集17
一歩退くことは一歩進むための前提となるのだ。
対人関係においては、なるべく寛大を旨としたほうがよい結果につながる。
人のためにはかってやることが結局は自分の利益となってはね返ってくるのだ。
進むために、まず譲る。ひたすら競争するだけでは、その先には破滅が待っていると『菜根譚』では説かれます。
同じように、名声や悪評も「譲る」ということが大事だと述べられているのを見ておきましょう。
名誉は、独り占めせず、少しは人にも分けてやるべきだ。そうすれば、ふりかかる危難を避けることができる。
『菜根譚』前集19
悪評は、すべて人に推しつけず、少しは自分もかぶるべきだ。そうすれば、いっそう人格を向上させることができる。
前集170 マネジメントのコツ:最初厳しく、後から優しく
恩恵を施すときには、初めはわずかで、後になるほど手厚くしていくのがよい。初め手厚くして後でけずっていけば、相手は恩恵を忘れてしまう。
『菜根譚』前集170
威厳を示すときには、初め厳しくして、後になるほどゆるめていくのがよい。初めゆるくして後で厳しくすれば、相手は厳しさに耐えかねる。
この言葉は、部下をもつ人、子どもの指導をする学校の先生などに、真理を教えてくれます。
誰かをマネジメントするとき、後から急に厳しくしたり、恩恵を薄くしていくのは完全なる悪手。上手にマネジメントしたければその逆で、最初は厳しく、あとから少しずつ優しくすることがポイントです。
前集153 自発的な変化を待とう
あまりせっかちに事情を知ろうとしても、かえってわからなくなることがある。そんなときは、のんびり構えて自然に明かになるのを待ったほうがよい。
『菜根譚』前集153
むりやり攻めたてて相手の反感を買ってはならない。人を使うさいにも、なかなか使いこなせないことがある。そんな場合は、しばらく放っておいて相手の自発的な変化を待ったほうがよい。
うるさく干渉してますます意固地にさせてはならない。
子育て中のお母さん、お父さん、あるいは先生や上司など、誰かを育てる立場の人もそう。何度教えても、諭しても、ちっとも変わってくれない…ってことがありますよね。
そんなとき、焦っても仕方ないどころか、かえって問題が悪化することさえ…。のんびりゆったり待っていれば、自ずと解決していくでしょう。
前集162 信じるあなたの気持ちが大切
相手を信じてかかれば、かりに相手が百パーセント誠実でなかったとしても、こちらは誠実を貫いたことになる。
『菜根譚』前集162
相手を疑ってかかれば、相手は必ずしもペテンを使うとは限らないのに、こちらからペテンを使ったことになる。
「自分は信じていたのに、人から裏切られた」という出来事はありませんか?
そんな時、たとえ相手が不誠実であったとしても、自分が人を信じたということ、つまりそれは自分の心に誠実であったということ。
逆に相手を最初から疑ってかかるようであれば、それは自分が不誠実だということを意味するのです。
他の句も踏まえると「なんでもかんでも人を信じよ!」ということが言いたいわけではないのだと感じます。
そうではなく、いろいろな背景の中で、結果として相手を信じ、任せた結果として、それでも裏切られたとき。もしくは、口では信じ、任せると言っているのに、心の中では疑っているとき。
こうしたときに、自分の心のあり方こそが大事なのだと言いたいのでしょう。
後集94 不器用こそがいい
文学の修業も道徳の修養も、「拙」、すなわち技巧を捨てることによって、進歩もし成就もする。「拙」の一字には無限の意味が含まれているのだ。
『菜根譚』後集94
たとえば、「桃源に犬吠え、桑間に鶏鳴く」という表現であるが、なんと素朴な味わいに富んでいることか。
それに比べると、「寒潭の月、古木の鴉」といった表現は、あまりに技巧がかちすぎて、生き生きとした感じを失っているように思われる。
「拙(せつ)」とは「つたない、まずい、へた」などを意味し、一般的にはネガティヴワード。しかし『菜根譚』では、「拙」こそが進歩・成就を意味し、「拙」には無限の意味が含まれると説かれます。
「拙」の対義語は「功」。つまり、へんな技巧さはいらない。それよりも、飾らない純朴さ、素朴なものこそが大事なのです。
不器用だっていい。誠実な努力をしていると、きっと伸びていけると信じて。
前集199 晩節を全うする
日が暮れ落ちても夕映えは美しく輝き、歳の瀬が迫っても柑橘はふくいくと香る。君子もまた晩年には、いっそう精神を奮い立たせなければならない。
『菜根譚』前集199
私は老いぼれてしまった。人生のピークは過ぎた。
私たちは、「老い」というものをネガティヴに捉えがち。しかし『菜根譚』では、そんなことはなく、むしろ私たちは晩年こそ輝くことができるといいます。
『菜根譚』は歳月を肯定します。そして、誰しもが悩むであろう「老い」との向き合い方を伝え、私たちを勇気づけてくれるのです。
まとめ 『菜根譚』は言葉の贈り物
最後に『菜根譚』のこの名言を紹介。
君子は、人を助けてやるほどの経済的余裕がない場合でも、悩んでいる人間に出会ったり、苦しんでいる人間にぶつかったときには、一言助言しただけで、悩みや苦しみから解放してやることができる。これもまた大きな善行にほかならない。
『菜根譚』前集142
この言葉は、物やお金では救えないときも、適切な言葉ひとつで相手を救うことができると伝えられます。
『菜根譚』はまさに、日々悩める私たちへの「言葉の贈り物」。絶えず変化し続ける私たち一人一人にとって、人それぞれ、その瞬間瞬間によって、響く言葉は変わってくるでしょう。
この記事を書くのに結構時間がかかりましたが、その中でも自分自身に響く言葉が変化していったのが印象的でした。自分自身の変化ととともに、読み方が変わっていく一冊です。
『菜根譚』は、最初から最後まで通しで読まなくても、パラパラとめくって、そのとき気になった言葉を好きなように読めばOK。
いつだって傍に置いておき、ふとしたときに手に取りたくなる、そんな名著です。ぜひ、気になった方はお手にとって、自分なりの『菜根譚』を堪能されてみてください。
この本があなたの人生にとって大いにプラスとなる1冊となることを願っています。
なお『菜根譚』は“聴く読書”Audible(オーディブル)で聴き放題で聴けます。
※オーディオブックで読まれる方の備忘録としても、本記事をぜひご活用ください。
オーディブルは30日間無料で体験できます。今日が人生で一番若い日。オーディブルで、あなたの日常に刺激とインスピレーションを。
\『菜根譚』も“聴き放題”/