アドラーはどんな人生を送ったの?
アドラーの功績って何があるの?
アドラーの生き方から何が学べるだろう?
そんなあなたのために、アルフレッド・アドラーとはどんな人物か、彼の思想や人生について書いています。
✔︎ 記事の信頼性
この記事を書いている人(@atsukuteyurui)のプロフィールは以下の通り。アドラーカウンセラーにも弟子入りし、アドラー心理学の勉強&実践を継続しています。
アルフレッド・アドラーとは?わかりやすく解説
アドラーの心理学者としての重要な特徴を3つ挙げます。
✔︎ 劣等感と劣等コンプレックス
アドラーが強調した劣等感と劣等コンプレックスは、人格形成にとって重要な役割を果たす要素として、今でも重視されています。
✔︎ 個人を分割できないものとしてみたこと
アドラー心理学の正式名称「個人心理学(individual psychology)」。これは、彼が人間は精神と肉体、意識や無意識、などとバラバラには分割できない(in-divide)存在であると考えたことに由来しています。これは、当時優勢だったフロイト派の心理学や、「刺激-反応」の仕組みで考える行動主義心理学とは異なる、斬新な考え方でした。
✔︎ 個人が社会的な存在であることを強調したこと
アドラーは、対人関係や社会的要素の重要性を強調しました。特に、子どもが社会で対人関係に苦労しないよう、子どもの教育に力を注ぎ、学校や家庭の教育で、親や教師が心理学の知識を身に付けることを目指しました。
アドラーの人生
✔︎ これからの話は、『アドラーの生涯』(エドワード・ホフマン著 / 岸見一郎訳)を根拠にして書いています。
幼少期
アルフレッド・アドラーは1870年2月7日、オーストリアのウィーンにて、7人きょうだいの次男として生まれました。アドラー家はユダヤ人の中産階級に属していましたが、宗教的にはまったく厳しくはない家庭だったようです1。
幼少期のアドラーは体が弱く、くる病にかかり、2歳を過ぎるまで歩くことができませんでした。また、5歳の時には肺炎にかかり、医師に「助からない」と宣告されたこともありました。また、3歳のころ同じベッドで寝ていた弟のルドルフをある朝、隣で亡くす経験をしており、大きなショックを受けています。
医師として
幼少期の健康問題から、アドラーは医師になることを決意します。1895年にウィーン大学を医学の学位を取得して卒業したアドラーは、眼科医→内科医→精神科医と転向していきます。アドラーは、遊園地とサーカスが併設されたウィーンのあまり裕福ではない場所に事務所を構えました。
患者の多くはサーカスの演者で、彼らは自分の身体能力で生計を立てていました。彼らの多くは幼い頃に生まれつきの虚弱さに苦しみ、その後努力して運動能力によって見事に克服したことをアドラーはとても興味深いと感じました。
困難を克服しようという衝動を観察したことは、アドラーの「器官劣等性」と「補償」「過補償」についての、アドラーの洞察につながったと言われています。1897年には、ロシア人の社会活動家であっるライサと結婚し、1909年までに4人の子どもの父親となりました。
精神分析との出会い、フロイトとの決裂
1902年、オーストリアの有名な精神科医ジークムント・フロイト(1856-1939)から誘われて、フロイトの研究グループに参加します。これがアドラーと精神分析との出会いでした。
アドラーは積極的に参加し1910年にはウィーン精神分析協会の議長も務めます。しかし、その後意見が対立し、フロイトとは決裂2。1911年、アドラーはフロイトのサークルを辞めて自分の流派を設立しました。
軍医としての従軍
自分の研究グループを立ち上げて数年経った後、1914年のサラエボ事件をきっかけに第一次世界大戦が始まります。アドラーは、1916年から軍医として従軍し、戦禍を目の当たりにします。
「戦争がなぜ起こるのか?」悩み考え抜いたアドラーが見出したのが「共同体感覚」でした。以後「共同体感覚」は、彼の思想の中でくり返し語られる、理念であり、重要な価値観となります。
教育へ力を注ぐ
大戦終了後、アドラーはウィーンでの名声を獲得していきます。この頃アドラーは教育に心理学の知識を取り入れることに、特に情熱を注ぎます。
1919年には、ウィーンで児童指導クリニックを組織し、教育学研究所の講師に。学校の教師が、心理学の知識を身に付けることができるよう、教師向けの講座を開講しました。アドラーは、精神衛生(メンタルヘルス)を学校に適用した最初の精神科医であったと言われています。
アメリカでの活躍
そして彼の舞台は世界へ。1926年以降、アドラーはアメリカにて、講演活動や執筆など大活躍します。1932年にオーストリアでファシズム政権を握ったことをきっかけに、1934年アドラーは妻と一緒にアメリカに亡命。
1937年、長女ヴァレンタインと音信不通になり、彼女の行方を追う中、同年5月28日、スコットランドのアバディーンでの講演旅行中に67歳で急死しました。
社会がよくなることを願ったアドラー
アドラーは、心理学者であると同時に、社会改革者でもありました。
ここでは、個人心理学を通して、アドラーがどのように社会をよくしようとしたかを紹介します。
アドラーは1890年の半ばには社会主義に強く傾倒しており、マルクスとエンゲルスの思想から大きな影響を受けています。政治的にもオーストリア社会民主党の熱心な党員として活動していました。
転機となったのは第一次世界大戦。1914年6月28日のサラエボ事件をきっかけに第一次世界大戦が始まると、ウィーンでも愛国的な興奮が世間に渦巻きます。
このような中で、アドラーがこれまで支持してきた社会主義政党が、たちまち戦争支持に回ったのです。しかし、社会主義の理想をより真剣に受け取っていたアドラーは、愛国的で戦争を支持する風潮には決して乗ることができませんでした。
その後、1916年から軍医として陸軍病院で精神神経科として働いたアドラー。彼は、第一次世界大戦の惨状を目の当たりにし、戦争の心理学的原因について考えるようになります。伝統的宗教や現代哲学からも満足のいく答えを得られないアドラーが、辿り着いた答えが「共同体感覚」という考え方でした。
つまり、アドラーは心理学を通して、個人や集団の劣等コンプレックスを減らし、代わりに共同体感覚を育むことで、よりよい社会を目指したのです。こうして、世界中に彼の心理学の体系を広めると言うビジョンに取りつかれたアドラーは、心理学の道に残りの人生を捧げたのです。
ちなみにアドラー心理学は「民主主義」と結び付けて語られることが多いのですが、アドラー自身は「民主主義」という言葉を使いません。
これは、第一次世界大戦で、人々が“民主的に”戦争の道へと突き進んだことがきっかけになっていると言います。民主主義や他の政治的イデオロギーの代わりとして、アドラーが考えたのが「共同体感覚」だったわけです。
アドラーの人生から考えること
よりよい社会を目指そうとしたアドラーの生き方から、社会をよくするには大きく分けて次の2つの考え方があるのだと気づきました。
個人が変わらないと、社会は変わらない
or
社会が変わらないと、個人は変わらない
みなさんはどちらの考え方が近いでしょうか?アドラーは元々、マルクス主義に傾倒した社会活動家でしたし、実際に第一次世界大戦後に政治の道を志したこともあります。
つまり、社会をよくするために、社会の仕組みそのものを変革しようとしたわけです。しかし、結局アドラーは、社会を変えるために、個人心理学という個人を変革する道に、人生を捧げました。
個人が変われば、社会が変わると考えたからです。個人が先か、社会が先か。答えは「両方とも大事」ということなのだと思います。けれども、一人の個人の人生の中でできることは限られています。
そのとき、社会の仕組みを変えるアプローチか、それとも個人の意識を変えるアプローチか、どちらかに集中するという考え方があるわけです。あなたなら、どちらを選ぶでしょうか?